昨日の続き...
本だけじゃない、人であり、事柄であり、
出逢うもの全ては、導かれている...
しかし、ここで、
この文脈に安易に語らせない。
そう、誰が、誰を導いているんだという関心事。
アプローチをすっきりさせよう。
誰が、をいくら議論してもしょうがない。
だから、
誰を、を問うことしか出来ないことを、
先ずは理解する。
もちろん、導かれているのは、
私よ、俺だよ、なんて声が聴こえる。
本当かね(笑)
導かれている私や俺を、
始終じっと見据えている存在がいるからこそ、
そんなことが言えるんじゃないのかな(笑)
<ビーイング(あるがまま)>としての私や俺は、
導かれもしないし、置き去りにもされない。
それでいて、そんな感覚や感慨にも理解を示す。
こんな重層的な理解が、
ビーイングセラピーのもたらすバランス感覚だ。
そして、ある瞬間、
誰が、についても閃きが訪れる。
合掌